映画とミステリー 楽しむついでに英語力UP
映画を楽しみ、ミステリー小説を楽しみ、ついでに英語の力がつけばいい。
そんな気持ちで、映画を見続け、小説を読み続けてきた”わたし”のブログです。

最近の映画

ファーストマン

  アカデミー賞最多部門ノミネートの記録を持つ「ラ・ラ・ランド」の監督と主演男優が再びコンビを組んで製作されたのが、人類史上初めて月に降り立った男の半生を描くこの映画だ。男とは勿論、アポロ11号の船長ニール・アームストロング。月での第一声、「人間にとっては小さな一歩だが、人類にとっては偉大な一歩だ」(“That’s one small step for man, one giant leap for mankind.”)という言葉はあまりにも有名だ。
 “leap”という単語を初めてこの名言で覚えたのも懐かしい。今回あらためて調べてみると、“jump”が跳ぶ動作を中心に表わすのに対し、“leap”は跳躍による移動を強調するようだ。
 今では“time leap”がタイムトラベルと同じように用いられたり、“Leaper”が閏年生まれの4年に1回しか誕生日の来ない人を表わしたり、なかなか面白い使われ方をする。

 映画はアームストロングの性格そのままに淡々と進んでいく。人類最初の月歩行者でありながら、その素顔は極めて地味だったらしく、2番目に月に降り立ったバズ・オルドリンが「最初」の名誉にこだわり、いろいろ「運動」したのとは好対照なのだ。
 実際、映画にも描かれているが、月に何を持っていくか?“・・・will you take anything?”と記者会見で聞かれても、“If I had a choice, I’d take more fuel.”(「できるだけ、燃料をたくさん持っていく」)とそっけない。一方、オルドリンは記者とも軽妙にやり取りし、奥さんの宝石を持っていって自慢のネタ(自慢の権利“bragging rights”)を与えてやると笑いをとる。

 このほか映画には、ロケット、宇宙船に係る英語で参考になるものが多い。カウントダウン後の「発射」は“lift off”で、持ち上がるイメージが強く、巨大なロケット打ち上げシーンを見るとあらためて、英語の方が日本語の「発射」より現実に近いと納得する。
 宇宙船同士がドッキングするのは勿論“dock”なのだが、日本語は「ドッキングする」と現在分詞形に固定されている。だから、離れるときには、英語は“undock”でいいのに、日本顔では「切り離す」と違う別の単語を使わざるを得ない。
 
 アームストロングの月面着陸までの道のりに、実験失敗やテスト中の事故死など同僚や友人の悲劇が次々に起こる。輝かしい成功には死の影がつきまとう。
 そして、アームストロングが実際に月まで持っていき、置いていったものとは・・・。
 それこそが、監督が描きたかったもの、光の裏の闇、英雄の陰の悲しみなのか。そう考えると、偉業を成し遂げながらも決して華やかさはなく、寧ろ心の奥底に深い孤独感を隠しているかのような、この人物が取り上げられたのも、十分納得できようというものだ。

Creed 2

 シルベスター・スタローンの代表作「ロッキー」シリーズの第二世代物とも云うべき、「クリード チャンプを継ぐ男」の続編だ。新シリーズの主人公、黒人ボクサーのアドニス・クリードの父親であり、またロッキーの親友であったアポロ・クリードを、「ロッキー4/炎の友情」の試合中に殺してしまったのがドルフ・ラングレン演じるイワン・ドラゴ。その息子ヴィクターが、ヘビー級世界王者になったアドニスに挑戦状を叩きつける。アドニスはチャンピオンベルト防衛と父の死へのリベンジを賭け、ロッキーの反対を押し切りタイトルマッチのリングにあがる・・・。

 と、まあ有りがちな展開ではある。映画のタイトルも邦題では「クリード 炎の宿敵」と、「炎」繋がりで関連性を示している。原題ではシンプルに“Creed Ⅱ”だが、日本の題名は親切、かつ一寸ウエットに過ぎるかな。
 そもそも“Creed”は、この映画では人名ではあるものの、「信念」「主義」特に宗教上の「信条」や「教義」といった意味を持つ普通名詞でもあり、わたしのイメージとしては(あくまでわたしのイメージだが)「引き継がれていくもの」というようなニュアンスが含まれている。映画の内容にぴったりではないだろうか。
 もっとも「ロッキー」“Rocky”にも、「岩のような」「意志の固い」「不動の」「頑固な」「困難な」「問題を抱えた」という意味があるのだから、映画の本質がこれら人名に込められているのはほぼ明らかだろう。さらに“Rocky”には、「(殴られたり、酒に酔って)ふらふらになっている」「グロッキーの状態」という意味もあるようだ。「ロッキー」シリーズで繰り広げられるボクシングシーンを思い出すと、なぜかニンマリしてしまう。
 
 ロッキーがドラゴとのタイトルマッチに反対し、アポロが死んだときのことを“・・・he died right here in my hands.”と嘆くが、字幕では「腕の中で・・・」となっている。よく指摘されることだが、日本語と英語では身体の部位を使った表現が少しズレていて面白い。「強肩」が“Strong arm”になるなどは良い例だ。
 このほか、耳をそばだてて聞いてみると、ボクシングの試合にまつわる英語らしい表現がぽつぽつと入って来る。
 トレーナーがアドニスに「みんなお前を応援している」と激励するのは“This is your house”。「スタジアム全体がお前のものだ」というわけだ。
 ロッキーはテレビでアドニスの試合を観戦しながら「ボディーを打て」、「もっと下だ」と呟くが、よく聞くと“Down stairs!”と言っていた。「下の階」に打つと云うことだろう。

 いよいよロッキーがセコンドに入り、因縁の試合は死闘と化していく。ロッキーはこのとき“・・・give him pain more than gain”と叫んでいたように思う。字幕では「肉を切らせて骨を断て」となっていた。日本語のアドバイスの方が格好いいな、と感じた次第。
 映画はありきたりのストーリー展開をたどるが、前作の「クリード」と同様、迫力のカメラワークとエモーショナルな音楽で、最後まで魅せていく。
 その結末にほっと胸をなで下ろし、充実感を感じたのは、わたしが相当シンプルな人間だからかだろうか。

 


デスウィッシュ
 1974年チャールズ・ブロンソン主演で製作された、邦題「狼よさらば」のリメイク作品だ。旧作は好評で、その後シリーズ化され計5作品作られた。シリーズ第一作も原題は“Death Wish”。今回は原題をそのままカタカナにして公開されたが、これは最近よくあること。「マグニフィシェント・セブン」もそうだった。

 面白いのは、当時のシリーズ作品が邦題では第二作以降「ロサンゼルス」「スーパー・マグナム」等々と、作品ごとに全く違うのに対して、原題は“Death WishⅡ” “Death Wish3”・・・とちゃんとナンバリング・タイトルになっていたことだ。
当時日本ではチャールズ・ブロンソンは絶大な人気を誇っていた。彼の主演作というだけで客を呼べる状況であり、さらに単なる続編というイメージを付けたくなかった日本の配給会社の意向があった一方、本国ではそこまで俳優の人気に頼れず、第一作の高評価をあくまでも利用しながら、シリーズ作品として製作が続けられていた、と(勝手ながら)考えると納得だ。
 ただ、シリーズ作品の内容は回を追うごとに低下し、典型的B級作品群となっていったことは想像するに難しくないだろう。
 
 さて、映画の中味は今回の主演ブルース・ウィルス演じる救急外科医が、強盗に妻を殺され、娘を昏睡状態にされたことから、夜の街に出て行き、警察に頼らず自分の手で悪党どもを始末し始めるという、今ではあまり珍しくないストーリーだ。自警団(ビジランテ“Vigilante”)ものというレッテルさえある。
 すぐ思いつくのは、ジョディ・フォスター主演の「ブレイブワン」だろう。
 だから、こうしたジャンルの、ある意味先駆けとなり、当時はそのバイオレンス描写とあいまって世の中に衝撃を与えた作品ながら、今では展開に新鮮味を欠くことになった内容の映画をわざわざリメイクする意味がどこにあったか考えてしまう。
 銃の所持に対する議論が延々と続く米国で、一定の答えを出す意味もあるのだろう。それ故に、この作品への批判も結構多いらしい。

 ビジランテものによくあるパターンだが、主人公の行動に「死神」か「英雄」か、と議論が巻き起こる。
 ここでの「死神」は“The Grim Reaper”と呼ばれている。今回初めてその名を知ったが、“The Grim Reaper”は大鎌を持った格好で、よく西洋の絵画などに出てくるあの骸骨らしい。黒ずくめでフードをしている。
 主人公が「パーカー」の「フード」で顔を隠して夜の街を徘徊するからそう呼ばれるのだろうが、この「パーカー」は英語では“Hoody”と言うようだ。
 「英雄」は“Folk Hero”と呼ばれ、「守護天使」(“Guardian Angel”)とも言われる。
そして“Is he a hero or is it wrong? ” と議論される。“Hero or Zero?”なんていう表現も出てきた。
 その行動を正当化するのは、“If a man really wants to protect what’s his, he has to do it for himself.”(「ひとが本当に自分のものを守りたいなら、自力でやるしかないんだ」拙訳)という、主人公の義父のせりふだ。(なお、“for himself“のforは無くてもいいように思っていたが、「自力で」と強調する際には使うようだ)
 その意味するところには賛同できるが、その結果や影響には大いに疑問が残るというのが大抵のひとの感じるところだろう。
 だが、この映画の結末に、ある種の爽快感を感じてしまうのも事実。世の中そう単純じゃないんだ。


 


ママミーア2

 人気ミュージカルを映画化して2008年にヒットした「マンマ・ミーア!」の続編だ。前作から10年後、ギリシャの島の小さなホテルのオーナー、ソフィの現在と、ソフィの今は亡き母、ドナの若き日つまり1979年当時の物語がフラッシュバックで描かれる。
 「マンマ・ミーア!」で明かされていた父(達)と亡き母の出会いの様子が具体的に映像化されているわけだ。
 
  この第2作のタイトル「ヒア・ウィー・ゴー」の部分は、テーマ曲でもある“Mamma Mia”の“here I go again”の部分をもじったものだということは明らかだ。(原題は“Mamma Mia! Here we go again")
 単純に訳すと「さあ、もう一度いこうよ(やろうよ)」となるのだろうが、曲の内容からするとそうでもなさそうだ。字幕では「またハマりそう」となっていた。そう、何度も恋人にだまされ、愛想をつかして別れると決めても、やっぱり別れられないわ! という切ない(?)女ごころを歌った曲だからだ。ある意味映画そのもののテーマかもしれない。

 この“Mamma Mia” を含めて流れる音楽はもちろんABBAの名曲。前作で取り上げられた曲が多いが、今作で初めて使われた曲もある。冒頭の“When I Kissed the Teacher”もそのひとつ。
 中に“I was in the seventh heaven”という歌詞があったので、何だろうと調べたら、「有頂天になって」という意味だった。ユダヤ人の信じる第七天国は最上天だから、らしい。

 前作でも流れた有名な曲では「恋のウォーター・ルー」がある。ドナが訪れるパリのレストランのウェイター達がナポレオンっぽい制服を着ていたから、もしやと思っていたら、案の定“Waterloo”が流れ、“I was defeated, you won the war・・・”と歌い踊り始める。
 もちろん、「あなたに負けたわ、もう首ったけ」とナポレオンのワーテルローでの敗戦にひっかけた恋の曲なのだ。ちなみに、欧米では“Waterloo”は「大敗」「惨敗」の意味になるようだ。

 こうして、映画では現在と過去が繰り返し交代して出てきて、登場人物達の過去の姿と現在の姿が対比されていく。だが、みな結構「いい歳の取り方」をしている。
 映画の中で、まさに“In your case, age becomes you”というセリフが出てくる。フェリーの乗り場のギリシャ人管理官が(いい味だしながら)パパのひとりに話しかけるシーンだが、日本語では年と共にうまく年齢を加えていくという意味になるだろう。
 彼は続けて“As it does a tree, a wine and a cheese”(「まるで大木やワイン、チーズみたいに」拙訳)と言う。“age becomes you”って、覚えておくと格好がいいセリフだ。

 いい歳の取り方と言えば、最後のほうに登場してくる女優にして歌手のシェール(Cher)は、最近あまり見かけなかったから、多少ケバくはあるが、いい歳の取り方をしていて驚いた。
 彼女が派手派手しく登場したあと歌う「悲しきフェルナンド」は必見、いや必聴だ。

 この「悲しきフェルナンド」原題“Fernando”は、メキシコとアメリカとのいわゆる米墨戦争を共に戦った友を思って、ひとりの老兵が歌う歌だそうだから、場面にぴったりだと言えそうだ。
(ちなみにABBAの元のスウェーデン語の歌詞では、失恋をした友人フェルナンドを慰めるという、比較的単純な内容だったらしい)

 そして映画は、“The Day Before You Came”でホロリとさせ、過去と現在、新旧登場人物入り乱れての“Super Trooper”乱舞シーンで大団円を迎える。
 二匹目のどじょうを狙っただろうには違いないが、まずまず成功している作品とは言えるだろう。

ミッション:インポッシブル6

  TVの人気ドラマをトム・クルーズ主演でリメイクし、世界的ヒットとなったスパイアクションシリーズの第6作。第1作から第3作まではⅠ、Ⅱ、Ⅲと数字表現だったが、4作目からはサブタイトルが付き、今作は「フォールアウト」と副題が付いている。

  “Fall-out”とは「放射性降下物」のこと。字幕では「死の灰」となっているときもあったが、要するに核爆発後に地上に降ってくる有害物質のことだ。
  動詞の“Fall out”には「~の結果となる」とか「結局~となる」の意味があるから、名詞化して「副産物」や「予期しない結果」という意味にもなるようだ。映画の中味を想像させる。

  今回の映画の冒頭は、TV作品当時のあの懐かしい設定で始まる。主人公に音声テープで指令が届けられ、「おはよう、フェルプス君。さて今回の君の使命だが~」と作戦の目的が明かされるのがTVシリーズのお約束だったのだが、本作ではこの設定を現代的に生かして、主人公イーサン・ハントに作戦指示が送られる。(そういえば、映画シリーズ第1作でフェルプス君が亡くなり、イーサン・ハントのミッション・インポッシブル・シリーズになると分かったときは、本当に淋しかった!)
 
  TV時代へのオマージュだけでなく、本作品は過去の映画シリーズのストーリーを生かして作品に厚みを加えていることに感心させられた。過去作をご覧になっていない方は、観てから劇場に行かれることをお勧めする。特に前作「ローグ・ネイション」は必見だ。
 
  本編のセリフで繰り返し出てくるもののひとつには、“What’s done is done”がある。字幕では「もう遅い」だったか。直訳では「やったことは済んだこと」なのだろうが、使い勝手は良さそうだ。
また、裏切られた場面などで、相手がつぶやくのが“No bad feeling”だ。「悪く思うな」となるが、こっちは使う場面が起きない方が良さそうだ。
 “There cannot be peace without first, a great suffering. The greater suffering, the greater peace”も何度も出てくる。「最初の大きな苦しみなくして平和はない・・・」そして「苦しみが大きいほど、平和も大きい」という意味だが、字幕では後半部は確か「苦しみが先、平和は後」になっていた。なるほど、字数が限られる字幕翻訳ならではの意訳だ。今回の字幕作成者、戸田奈津子さんの面目躍如といったところだろう。
 
  このほかにも面白い表現があったが、特に後半からハラハラどきどきが止まらなくなり、手に汗握る展開にセリフを覚えておく余裕がなくなってしまった。それほどクライマックスは盛り上がり、アクションも切れ味、迫力満点だ。
 ストーリーが少し複雑すぎて、展開を理解するのに気を取られる面はあるものの、アクション映画としての出来映えは間違いなくシリーズ一、二を争う作品と言えるだろう。


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